ディストラクション・ベイビーズ―柳楽優弥がまとう獣性。真利子哲也監督の描く暴力というエネルギー
- 2016年06月17日更新
愛媛県松山市の港町三津浜。将太(村上虹郎)は学校からの帰り道、兄・泰良(柳楽優弥)が別の街の少年たちに集団リンチを受けているところを目撃する。この喧嘩を最後に、泰良はこの港町から姿を消し、松山の中心街にいた。街をぶらつきながら、強そうな相手を物色し、喧嘩を仕掛け、どんな相手でも勝てるまで立ち向かっていった。そんな中、喧嘩はまったく弱い高校生、北原裕也(菅田将暉)は、街で着ている服を泰良から無理やり交換させられる。自分のシャツを着て、ひるむことなく喧嘩をする泰良を見ていた裕也は「あんたすごいよ!俺と面白いことや」と声をかける。裏道ではなく、大通りに出て、片っ端から、喧嘩をふっかける二人。女だろうとかまわない。無差別の通り魔のように凶行を繰り返す二人の情報は瞬く間に広まっていった。場所を変えて喧嘩をするために、二人はキャバクラの送迎車を奪う。車にいたキャバ嬢・那奈(小松菜奈)をむりやり押し込み、三人は松山の歓楽街を抜け出る。喧嘩を求める旅は殴った数だけ問題をはらんで加速していく。三人の乗った車はどうやって止まるのだろうか。
柳楽優弥がまとう獣性
なんと言ってもこの作品の見所は、柳楽優弥の喧嘩シーンに尽きる。街で喧嘩相手を探す表情から、つっかかっていく瞬間の勢い、そこから始まるノンストップの殴りあい。喧嘩の合間の湿った殴る音も含めて、現実的な喧嘩がそこにある。柳楽優弥君の顔面から発せられる獣性、ちょっと背中を丸めた居佇まいは「喧嘩を生業にした男」の煮詰められた原液だ。泰良はほとんど言葉を発しない。言葉よりも強く殴り合うことで相手を知り、相手から殴られることで泰良自身、喧嘩がどんどん上達していく。誤解を恐れずにいうのなら、自分を成長させていくものとして暴力がある。泰良はしかけた喧嘩で最初から勝つことはない。相手のパンチを受け、痛みを感じ、血を流して、相手の喧嘩スタイルを学んでいく。コテンパンにやられる。もう一度起き上がる、学んだスタイルからまた新たに喧嘩をする、繰り返し….だからこそ、泰良の喧嘩相手は絶対に“格上”少なくとも“互角”の相手とやらなければ意味がない。
権力としての暴力に魅了される裕也
だから、泰良にとって喧嘩の弱い裕也はエネルギーを使う相手でない。菅田将暉演じる裕也にとって、喧嘩というのは勝たなければ意味がない。勝つことで社会的に恐れられ、権力を持つことができるからだ。泰良が自分のシャツを着て、街の強者をノックアウトさせた時、まるでそれが裕也本人であるかのように、裕也自身が権力を握ったような錯覚を覚える。その時の、小者がかみしめる高揚感。本当に小者である。実際の裕也は喧嘩が弱く、絶対勝てるといって立ち向かっていった相手をみると、泰良とは滑稽なまでの落差がある。この下衆で滑稽な小者感は菅田将暉君の最大の魅力である(もちろんほめています)。
真利子哲也監督の描く暴力というエネルギー
泰良は喧嘩で感じることができる全ての感覚にしか興味がない。言葉を発しない泰良が那奈に「なぁ、どうやった?」と問いかけるシーンがある。那奈が起こした暴力行為の感覚を知りたい泰良をみて裕也は心から嫌悪し、泰良の感覚を拒絶する。泰良の暴力は社会的なものでなく、呼吸そのものだ。生きるために必要不可欠なものだからこそ、一般的に言われている「権力としての暴力」とは一線を画している。本能的な暴力にそもそも共感できない人は多いだろう。この物語の中にもう一つ、暴力の形として描かれているのが、喧嘩神輿だ。一年に一度、神輿を介して人々が喧嘩をする。これも、暴力だ。暴力というエネルギーは必ず存在している。肯定ではない。喧嘩神輿にはエネルギーを放出する一つの浄化作用の一面をもつ。真利子哲也監督は、社会的な意味合いを取り払った、むき出しの暴力を激しい熱量と冷徹な視線で描いているのだ。
▼「ディストラクション・ベイビーズ」作品・公開情報
2016年/日本/108分/5.1ch/ビスタ/カラー/デジタル/R15指定
監督・脚本:真利子哲也 脚本:喜安浩平 音楽:向井秀徳
柳楽優弥 菅田将暉 小松菜奈 村上虹郎 池松壮亮 北村匠海 三浦誠己 でんでん
製作幹事:DLE 制作・配給・宣伝:東京テアトル 制作協力:キリシマ1945
●「ディストラクション・ベイビーズ」公式サイト
©2016「ディストラクション・ベイビーズ」製作委員会
文:白玉
- 2016年06月17日更新
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