『アイガー北壁』

  • 2010年03月28日更新

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「殺人の壁」とも呼ばれる、スイスはアルプスの名峰、アイガー北壁。

1936年、夏 ― ベルリン・オリンピック開幕直前のことである。ナチス政権下のドイツは、「アイガー北壁に初登頂したドイツ人に、オリンピックの金メダルを授与する」と約束した。「ドイツは世界で優位に立っている」と他国に誇示するためにおこなわれた政策のひとつである。

実在したドイツ人の登山家で、当時23歳だったトニー・クルツとアンディ・ヒンターシュトイサーは、国家とマスコミの「大いなる、しかし身勝手な、期待と関心」を背負って、アイガー北壁に挑んだ。のちのちまで語り継がれる実際の出来事を映画化したのが、本作『アイガー北壁』である。

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「名誉」を追い求めるあまりに、生きるための判断力を失ってしまった命。

友人を救うために、犠牲へと投じられた命。

「最期だ」と意識することすらできぬままに、ついえざるをえなかった命。

時代と、国家と、第三者と、名誉に翻弄された結果、失われてしまった多くの命 ― 『アイガー北壁』は、そんな「あのとき、失われる必要はなかった」命たちの物語である。

この物語に限って言えば、「殺人の壁」を人殺しにたらしめたのは、難所のアイガー北壁そのものではない。

登山家たちの肩にのしかかっていた「国家からの圧迫と、名誉欲」が、彼らを殺したのである。

アイガー北壁の麓にある高級ホテルに集まったジャーナリストや観光客がいる。昼間は、命がけで登頂を目指す登山家たちをホテルのテラスから双眼鏡で眺め、夜は、豪勢な料理と「登山家たちの現況」を肴に、酒のグラスを乾して、ダンスに興じる。

アイガー北壁で命を賭している登山家たちと、豪奢なホテルで優雅に過ごしている者たちの、皮肉を通り越した明確な対比 ― それこそが、本作を通じて、私が最も痛烈に浴びた悲しみと虚しさである。

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ホテルで過ごすジャーナリストのひとりに、ルイーゼという名の女性の記者がいる。彼女は、今まさに北壁に挑んでいるトニーとアンディの幼なじみでもある。

ルイーゼはトニーに恋心を寄せている。トニーが命を落としかけていると知った彼女は、ジャーナリストらしからぬ行動をとる。その行動は、ルイーゼ自身の命すら顧みないものだった。

本作は恋愛映画ではない。しかし、ルイーゼの行動には、「愛する人を救いたい」という単純かつ純粋な欲求と衝動から、「無意識の勇気」を得た者の本質が表れている。

たとえ登山が趣味でなくても、たとえ山岳に興味がなくても、本作を観たら、「命」と「愛」に打ちのめされるあまり、しばらく放心してしまうだろう。『アイガー北壁』は、「命」と「愛」の物語である。それを提示してくれたのが、たまたま、登山家やジャーナリストだった、というだけだ。

無論、登山と山岳に造詣が深いかたなら、本作をより興味深く観られること必至ではあるが。リアリティを追求した撮影は、キャスト、スタッフ、スタント・マン、そして、撮影機材にとっても、「過酷」と表現するしかない状況下で敢行された。その結果、表出された「現実と紛いかねない映像」を、ぜひ体感していただきたい。

ラスト・シーンを観て、「生き残った人間は、このように生き続けていくのだ。……このように生きるからこそ、人間なのだ」と痛感する。いつか、……本当に、いつか、月日は必ずや、自らが当事者とならざるをえなかった悲劇の記憶を癒してくれる。

「思い出」は、自分自身と向きあうための、強靭な糧となるのだから。

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▼『アイガー北壁』作品・公開情報
ドイツ・オーストリア・スイス/2008年/127分
原題:”NORDWAND”
監督・脚本:フィリップ・シュテルツェル(Philipp Stlzl)
出演:ベンノ・フュルマン ヨハンナ・ヴォカレク バーダー・マインホフ フロリアン・ルーカス ウルリッヒ・トゥクール 他
配給:ティ・ジョイ
コピーライト:(c) 2008 Dor Film-West, MedienKontor Movie, Dor Film, Triluna Film, Bayerischer Rundfunk, ARD/Degeto, Schweizer Fernsehen, SRG SSR idee suisse, Majestic Filmproduktion, Lunaris Film- und Fernsehproduktion All rights reserved
『アイガー北壁』公式サイト
※2010年3月20日より、ヒューマントラストシネマ有楽町(東京)、シネ・リーブル梅田(大阪)、伏見ミリオン座(愛知)他にて、全国順次ロードショー。

文:香ん乃

この本を読んで、映画『アイガー北壁』を、より深く味わおう!
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改行

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