『終着駅 -トルストイ最後の旅-』

  • 2010年09月15日更新

syutyakueki

『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』を著したロシアの文豪レフ・トルストイ ― その夫人ソフィヤは、「悪妻」として歴史に名を刻んでいる。彼女の愚かしさを伝える逸話として有名なのは、「夫の版権を取得しようと躍起になった強欲ぶり」と、「妻に愛想を尽かしたトルストイが、82歳にして『家出』をし、その出先で息を引きとった」というものだ。

しかし、一方で、「ソフィヤは悪妻ではなかった」とする説もある。映画『終着駅 -トルストイ最後の旅-』では、ソフィヤが夫の版権にこだわった理由は家族の将来を案じたからで(トルストイ夫妻は、13人の子供を儲けている)、トルストイが晩年に家出をしたのは、妻に限らず、秘書や支持者たちをも含めた人間関係に苦悩したゆえの行動であるとなっている。

文豪トルストイと、その献身的な妻ソフィヤ ― 50年近く結婚生活を送ってきたふたりの生活が一変したのは、自然主義的思想を唱えるトルストイが、「自分の遺産はすべてロシア国民のために使う」という新たな遺言書への署名に同意したからだった。ソフィヤにとっては、まさに寝耳に水。トルストイにそんな決意させたのが弟子のチェルトコフだと知ったソフィヤは、彼への敵意を隠そうとせず、また、チェルトコフもソフィヤの監視に余念がない。よき夫・よき父親としての自覚を求めてくるソフィヤと、信奉者たちから寄せられる理想の狭間で、すっかり憔悴しきったトルストイ。悩みに悩んだ彼は、82歳にして「家出」を計画するが……。

「ソフィヤは有名な悪妻で、彼女から逃れたくてトルストイは家出をした」という逸話が頭にあると、「関係が冷えきった老夫婦の顛末(てんまつ)を描いた映画」と誤解してしまいそうだが、本作で描かれているトルストイとソフィヤは、ときに見ているこちらが恥ずかしくなるほど仲睦まじい。夫の注目を浴びたい一心で、ソフィヤは彼に頬ずりをするかと思えば、次の瞬間には、まるで子供のように拗ねる。妻に仕事の邪魔をされて顔をしかめるトルストイだが、ソフィヤとふたりきりのときには、動物の鳴き真似をしてはしゃぐこともある。

ヘレン・ミレンが演じるソフィヤと、クリストファー・プラマーが演じるトルストイ ― 地位の高い老夫婦が、枯れていない愛情をあからさまにさらしている情景を前にすると、こそばゆくも微笑ましい気持ちになってくる。スクリーンの中にいるのは、私たちの身近にいそうな、「長年、連れ添った夫婦」だ。ふたりは互いの性格や好みをよく知っていて、おおかたは平穏に暮らしているけれど、夫婦だからこそ、たまには喧嘩もする。そして、始まりは夫婦喧嘩でも、夫が「世界的な文豪」であるがゆえに、ささやかな諍(いさか)いは、いつしか、周囲の人々のみならず、「社会」をも巻きこむ事件へと膨張していく。

ソフィヤの思い描く理想の世界は狭い。夫と愛を注ぎあえて、家族が安泰なら、彼女は幸せなのである。つまり、本作でのソフィヤは「ごく普通の、家庭的な妻」であっただけなのだ。しかし、トルストイの信奉者たちには、ソフィヤのそんな世俗的な態度と考えが罪にすら映る。特に彼女を警戒したのが、ポール・ジアマッティ演じるチェルトコフだった。

ソフィヤとチェルトコフの確執が、ひいてはトルストイを追いつめるわけだが、意見の違う者同士の対立というよりも、まるで「トルストイをめぐる三角関係」のように見えてくるのが、興味深く、かつ、感情移入のしやすい点である。トルストイはソフィヤを愛しているが、自分を盲目的に崇めて忠誠を誓ってくるチェルトコフに絶大な信頼を寄せてもいる。ソフィヤは確かに、チェルトコフの主義主張に異を唱えているけれど、彼を目の敵(かたき)にする本質的な理由は、「夫が、妻の自分よりも弟子の味方をしているのが、おもしろくないから」ではないか、と邪推せずにはいられなくなってくるのだ。

いわゆる「空気が読めない行動」をソフィヤが次から次へとするのも、たびたびヒステリーを起こしてトルストイを辟易させるのも、チェルトコフに幼稚な嫉妬心をいだいたからなのだろうと想像した途端、ソフィヤが俄然、愛しくて応援したい存在になってくる。「彼女が夫の名声や立場よりも、自分への愛情と家族の幸福を重視して、なにが悪いの!?」と、筆者はチェルトコフに食ってかかりたくなり、同時に、トルストイの胸倉をつかんで、「もっと奥さんと向きあってあげなさいよ!」と説教したくなった。

『終着駅 -トルストイ最後の旅-』は、ロシアの偉大な文豪の晩年を描いた伝記映画だ。しかし、それ以前に、「結婚したときから変わらぬ愛情を夫に注ぎ続けている妻と、彼女の想いにどのように応えればよいかを模索して苦悩する夫」の姿を映した恋愛映画なのである。

史実の人物を扱っているからといって、それが実際の姿かどうかはわからない。ソフィヤが悪妻と良妻のいずれだったのか、トルストイが老いて家を出た真の理由はなんだったのか、後年の私たちには、本当の意味で確かめる術(すべ)はない。だから、実在した大作家の生涯を知るためというよりも、ひと組の老夫婦が織りなす愛の形を観るべく本作に接したほうが、この映画に対する感銘がより近しく忘れ難いものとなるように思えてならないのだ。

▼『終着駅 -トルストイ最後の旅-』作品・公開情報
ドイツ・ロシア/2009年/112分
英題:”THE LAST STATION”
監督・脚本:マイケル・ホフマン
製作総指揮:アンドレイ・コンチャロフスキー
原作:ジェイ・パリーニ『終着駅―トルストイ最後の旅』(新潮文庫刊)
出演:ヘレン・ミレン クリストファー・プラマー ジェームズ・マカヴォイ
ポール・ジアマッティ アンヌ=マリー・ダフ ケリー・コンドン 他
配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
『終着駅 -トルストイ最後の旅-』公式サイト
※2010年9月11日(土)より、TOHOシネマズシャンテ、bunkamura ル・シネマ他、全国順次ロードショー。

文:香ん乃

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改行

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