『シルビアのいる街で』特別試写会で、来日したホセ・ルイス・ゲリン監督がティーチ・イン!

  • 2010年07月07日更新

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2008年の東京国際映画祭で話題をさらった、ホセ・ルイス・ゲリン監督の『シルビアのいる街で』が、この夏、いよいよ日本で公開! 2010年8月7日(土)よりシアター・イメージフォーラム(東京)でのロードショーを皮切りに、全国で順次公開されます。

『シルビアのいる街で』は、フランスの古都・ストラスブールを舞台に、グザヴィエ・ラフィット演じる男性が、「この街で6年前に愛した女性・シルビア」を追い求める物語。彼はピラール・ロペス・デ・アジャラ演じる女性を「見つける」のですが、果たして、彼女こそがシルビアなのか、それとも……? ― しゃれたラヴ・ストーリーかと思いきや、美しい映像と緻密に計算された音の中、物語の結末は、観る者それぞれの想像と解釈に委ねられていきます。

ロードショーに先立って、2010年6月30日(水)に東京日仏学院のエスパス・イマージュにて特別先行試写会が開催され、来日したゲリン監督がティーチ・インに登場しました!

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スペインはバルセロナ生まれのゲリン監督は、スペイン語はもちろん、フランス語も流暢に操ります。会場の日仏学院には、フランス語が堪能のお客さまが多かったこともあり、ゲリン監督はスペイン語とフランス語を併用して、観客のみなさまからの質問に回答しました。

聴き手を務めたのは、『ランニング・オン・エンプティ』で商業映画デビューした新鋭・佐向大監督。「『シルビアのいる街で』は、暴力的なほど力強い演出で映像が表現されています。とても感動して、圧倒されました」と、佐向監督は本作を絶賛します。

今回のティーチ・インは本編の上映後におこなわれましたが、その際、ゲリン監督は、このように前置きをしました。

『シルビアのいる街で』を作るにあたって、私は「あらゆる要素を取り去ろう」と努めました。
そういった理由から、本作を既にご覧になったみなさまに、自分が取り去ろうとしたものをお話しするということは、実は、本意ではありません。私が言葉を加えることで、この作品へのイメージが反対になってしまうのでは、と心配だからです。

「観る人の数だけ、違う物語がある」 ― 『シルビアのいる街で』を味わい尽くすために必要なのは、ずばり「観察眼」。

このティーチ・インの内容には当然、本作と密接な関係を築くためのヒントがたくさん含まれていますが、筆者としては、まず「ノー・ヒント」の状態で、ご自身の観察眼を存分に駆使して、『シルビアのいる街で』をご鑑賞いただき、その後、この記事のようなテキストでヒントを得てから、再度、本作をご覧になるよう、お勧め致します。初回の鑑賞で「発見」した事象の数々が、2回目の鑑賞で具体性を持って結びつくことにより、「自分だけの物語」が完成するからです。

― 「あらゆる要素を取り去る作業をした」ということですが、演出するにあたって、それ以外に重要視された点は?

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「私がみなさまに提示しているものは『白紙』なのです」

ホセ・ルイス・ゲリン監督(以下、ゲリン) あらゆる要素を取り去るということは、つまり、「取り去っても残るものが重要」ということです。
本作では、心理的な描写をなるべく取り除くと共に、不必要なストーリーやプロットを最小限に抑えました。その結果、「視点」と、「『見る』ということに対する関係性」が生まれてきます。本作に登場する女性たちの表情を見て観察することと、それを夢見ることが、この映画の原理であり、とても主要で重要な点です。そうすることで初めて、本作の美しい部分が花ひらくのだと思います。
本作の登場人物たちの情報を、私たちはなにも持っていません。主人公の男性の素性や職業もわかりません。つまり、私がみなさまに提示しているものは「白紙」なのです。
私にとって、自分の情熱を白紙としてみなさまに提示するのは、大きな挑戦です。ですが、観てくださるかた、ひとりひとりに、ご自分の視点で、ご自身の経験をもとにして、「主人公の人物が何者であるか」という、白紙に色をつけて中身を作る作業をしていただきたいのです。
恋の物語は、「見つめあうこと」から始まります。私は観客のみなさまとの恋物語の第一歩を、この作品で踏みだしたい、と思いました。

― 『シルビアのいる街で』は、全篇、ストラスブールでのロケが敢行されています。この街で撮影をした理由は?

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「ロケ地の街にある要素を自分のものにする、ということを常に心がけています」

ゲリン まず第一に、「路面電車が走っている街」で撮りたい、と考えていました。
もちろん、ヨーロッパにはほかにも路面電車が走っている街はありますが、「フランスでありながら、フランスではない」という理由で、ストラスブールを選びました。この街はフランスとドイツの国境に位置していて、「どこの国かわからない」という雰囲気を備えています。
その雰囲気を、私は「音」で表現しました。たとえば、ロシア語、ドイツ語、フランス語など、さまざまな言語で会話が交わされています。こういった手法で、「具体的な街ではない、見ず知らずの街」という設定を作りたかったのです。なので、たとえばノートルダム大聖堂のような、ストラスブールの象徴的な建造物は、敢えて映していません。
ストラスブールは、たくさんの要素が取り除かれた街だと思っています。たとえば、交通量が多くないので車の騒音が少ないですし、広告や看板もわずかです。そのため、「路面電車と自転車等が行き交う」という意味でも、自分が好きなように撮れる街だ、と考えました。
(敬愛する)小津安二郎監督やF・W・ムルナウ監督*1のように、すべてを自分でコントロールできる撮影所やセットで映画を撮りたい、と私も思いますが、お金がありません(笑)。ですので、ロケ地の街にある要素をなんとかして自分のものにする、ということを常に心がけています。ストラスブールは、私が思うように人を動かせて、思うように背景を使うことのできる、非常に理想的な街だったのです。「そこにある現実」の中で撮影をしました。たとえば、路面電車も、撮影用に動かしたわけではなく、普段通りに走っています。

*1:F・W・ムルナウは、1888生まれのドイツの映画監督。代表作に、『ジェキル博士とハイド氏』(1920)、『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)など。

― 劇中に出てくる鳩が不思議な動きをしていたので、鳩にも演出をしているかのように見えたのですが(会場笑)、そうではないのですね?

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「『場所を分析・観察して、そこにある現実がなにを与えてくれて、どういう意味を持つか』を考えながら、スクリーンの上に映しだしていきます」

ゲリン 要素と対象に歩み寄って行程を結ぶことにより、それらに自分の好きなように動いてもらうことは可能だと思います。
(「映画の父」と呼ばれる)リュミエール兄弟が初期に手がけた、「街」を撮った作品は、非常に美しいです。犬がいたり、上手(かみて)から下手(しもて)へ向かって路面電車が走ったりというシンプルな動きに、とても美しさを感じました。
それを観たときに、「これは偶然なのだろうか」と考えたのですが、偶然ではないのですね。リュミエール兄弟は、街や場所を非常によく観察した結果、調和のとれた構成をスクリーンに映しだしているのです。ムルナウ監督や小津監督、エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督*2とは違って、お金がない私にとっては(笑)、リュミエール兄弟と同じように映画を撮ることが最高の策なのだ、と思いました。「場所を分析して、よく観察し、そこにある現実が自分になにを与えてくれて、どういう意味を持つか」ということを考えながらスクリーンの上に映しだしていくという作業を、注意深くおこなっています。

*2:エリッヒ・フォン・シュトロハイムは、1885年にオーストリアで生まれて、ハリウッドで活躍した、映画監督であり俳優。代表監督作に『グリード』(1924)、代表出演作に『サンセット大通り』(1950)など。

― 「シルビア」は、ヨーロッパの人々にとって、特別な印象を持つ名前なのですか?

「シルビアという名前は、『音』で選びました」

ゲリン この映画に出てくる唯一の名前である「シルビア」は、街に引力をもたらして重力を与える「音」です。
もちろん、ヨーロッパ文学にはシルビアという女性主人公が登場する作品がありますが、そういう点は、ご心配なさらないでください(笑)。
なぜなら、私は「シルビア」という名前を「音」で選んだからです。(本作の原題である)”EN LA CIUDAD DE SYLVIA”が、たとえばシャルロット等のほかの名前をあてるよりも、(音として)一番、美しいと思ったのです。

― あるシーンで映る新聞に、犯罪者に関する記事が載っていますが、意図的な演出ですか?

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「たくさん隠されている小さなことの数々が、シルビアのこれからを考える要素になっています」

ゲリン この映画の中には、小さなことがたくさん隠されています。それらが、シルビアのこれからを考えるための要素にもなっています。たとえば、傷痕のある女性が映るシーンがありますが、彼女がシルビアなのかもしれません。このように、可能性は非常にたくさんあるわけで、私はその可能性をあらゆるところにちりばめていて、観客のみなさまにそれらを見つけて考えていただきたい、と思っています。

― ゲリン監督の作品を観ると、「この映画が撮影されている場所に行ってみたい」という気持ちになります。ロケをした場所の景色も、そこにいる人々も、ときが経つにつれて変わっていくと思いますが、かつて撮影をした場所を数年後に訪れて、また映像を撮りたいと考えますか?

「私の撮る作品の中には、すべて、『時間というものの弁証法的な「とき」』が流れています」

ゲリン 私の撮る映画は、まず「場所=撮影現場」ありきです。「場所を読む」という分析から始めます。それは、その風景の中に残されている足跡や徴(しるし)を読むという作業です。
また、その場所と、そこに住む人々の親密性を、私は非常に大事にしたいと思っているので、可能であれば、ロケ地に住んでいるかたがたに俳優として出演していただいています。
映画を撮るとき、私は旅をします。観光客の視点ではなく、「旅人の視点」で場所を見るのが好きなのです。「旅人の視点」は非常に繊細なので、普段、自分がいるところとは違う場所に対して、とても敏感です。なので、映画を撮る際には、自分がいつも住んでいる場所から出て、知らない街である撮影現場で、制作スタッフたちと一緒に、その空間を共に生きることから始めます。オフィスに行って自宅に帰るという日常生活から抜けだすためにも、スタッフや出演者たちとまったく知らない場所へ行って共に生活をすることで、集中することができるのです。
そのため、私の撮る作品の中には、すべて、「時間というものの弁証法的な『とき』」が流れています。それは、「過去が培った現在」という意味です。『シルビアのいる街で』にも、主人公の男性が6年前に会った女性を探すため、つまり、「6年前の過去を探しに現在に戻ってくる」という、とても神話的な要素があります。

― ゲリン監督にとって、映画における美学は?

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「私にとっての映画の美学は、『世界を語る方法・手段』で、そこには必ず、コントロールできるものとコントロールできない偶然とのあいだの弁証法があります」

ゲリン 私にとっての映画における美学は、装飾的なものではまったくなくて、「世界を語る方法・手段」です。テーマ性は特に重要ではなく、どのように世界と関係を結ぶかということが自分にとっての美学であって、そこには必ず、コントロールできるものとコントロールできない偶然とのあいだの弁証法があります。
たとえば、『シルビアのいる街で』における、登場人物が路面電車の中で会話をしているシーンは、「出演者が脚本に書かれた台詞を読んでいる」というコントロールされている部分があり、なおかつ、路面電車というコントロールされていない日常の中の偶然性があります。そのふたつの弁証法を、このシーンで描くことができる、ということです。
路面電車が停車したり、動きによって影ができたりすれば、光の動きも変わっていきます。それは偶然的なものであり、アクシデントです。そういった事象を、自分が最初の観客としてその場に立ち会って見ているということが、私にとっては重要です。
そういった意味でも私は、ドキュメンタリー的な手法にこだわっていて、コンピュータで(カットを)すべて割ったものをそのまま撮るという方法は使いたくなく、現実に結びついた方法で撮影をしたいと思っています。私はフィクションとドキュメンタリーを交互に撮っています。フィクションを撮る際はドキュメンタリー的な手法を使い、ドキュメンタリーを撮るときはフィクション的な手法を使うというように、両方を結びつける仕事をしています。

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▼『シルビアのいる街で』
作品・公開情報

スペイン・フランス/2007年/85分
西題:”EN LA CIUDAD DE SYLVIA”
仏題:”DANS LA VILLE DE SYLVIA”
英題:”IN THE CITY OF SYLVIA”
監督・脚本:ホセ・ルイス・ゲリン
出演:グザヴィエ・ラフィット ピラール・ロペス・アジャラ 他
配給:紀伊國屋書店 マーメイドフィルム
コピーライト:(C)Eddie Saeta s.a/Chateau-Rouge Production
『シルビアのいる街で』公式サイト(注:音が出ます)
※2010年8月7日(土)より、シアター・イメージフォーラム(東京)他にて全国順次ロードショー。

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『シルビアのいる街で』 作品紹介

取材・編集・文:香ん乃 スチール撮影:秋山直子
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《セレブの靴チェック!》
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改行

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